妙行寺のご紹介
TEMPLE INFORMATION


妙行寺について
山号は妙法山(みょうほうざん)寺号は妙行寺(みょうぎょうじ)。
開基は日蓮聖人の直弟子 六老僧の1人 大国阿闍梨日朗聖人(1245年~1320年)。比企谷 妙本寺の末寺である。
妙行寺は享保10年頃(1725年)室田の山本仁兵衛による草創と伝えられています。この時期に鎌倉小町より当地に移転されたと思われる。

日蓮大聖人像
芳心院が寛文6年1月に宗祖日蓮大聖人の坐像を造立。像高約29センチの小像ながら金泥、盛上文などを多用した豪華な像である。
像背面の両山第十九世日豊聖人による開眼墨書には、芳心院が「武運長久子孫繁栄現当二世成就祈」のため造立したことが記されている。
この像の御頭内には、334遍におよぶ芳心院自筆の題目と「芳心院妙英日春」との自筆署名、および芳心院付の女中達による題目奉唱回数が記され納められている。
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芳心院(茶々姫、因幡姫、1631年~1709年)。紀州藩主・徳川頼宜の長女。鳥取藩主・池田光仲の正室。
芳心院は篤信の法華信者であったが、これは芳心院の生まれ育った紀州徳川家における信仰環境に拠るところが大きい。
徳川家康側室で紀州藩祖徳川頼宣、水戸藩祖徳川頼房の生母、つまりは芳心院の祖母である養珠院(お万の方)は、近世初期を代表する日蓮宗の大外護者として著名である。
養珠院は家康が歿して以降、頼宣と共にあり頼宣紀州襲封後は江戸紀州藩邸にて生活をしていた。
養珠院は承応2年(1653年)8月21日、芳心院が13歳の時に歿しているが、芳心院が寛永10年(1633年)に3歳で江戸に下向してより、正保2年(1645年)に15歳で池田光仲に嫁すまで、紀州藩邸において養珠院の薫陶を受けたと考えられる。
母である瑶林院は、篤信の法華信者として著名な加藤清正の第一女である。加藤家より養珠院のいる紀州家に嫁した瑶林院もまた篤信の法華信者であった。